全ては犬の見ている夢だったらいいのに

毒家族の狂ったエピソードと現実的な家族終い

毒母エピソード【結婚と指輪と孫】

私は晩婚だったのだが独身の時、母はことあるごとに

「結婚しないの?誰かいないの?」と聞いてきた。

 

付き合った人を紹介することもその人について話したりすることもなかったので、

いつもかわしていたのだが母は勝手に私の写真と個人情報を他人に渡したりしていた。

ある時は「マンションをいくつか持っている」というかなり年上の男性を

紹介しようとしていた。

 

母は私の幸せを願っているのではなく「独身の娘がいる」ということが

嫌だったんだと思う。

父方の独身の叔母のことも、よく「オールドミス」だの「行かず後家」だのと

散々悪口を言っていた。

 

そんな母の人品骨柄の卑しさが際立ったエピソードがある。

 

ある日実家に行った時、仕事関係の人から電話があり、

お世話になった会社の社長さんの奥様が亡くなったことを知った。

とても素敵な家族だったし、まだ小さなお子さんもいらっしゃったしで

信じられなくショックで、思わずその場にいた母に話してしまったのだが

母は一言

「その社長と結婚できないの?」と言った。

私はその場で怒り、さっさと実家を後にした。

こんなにも下劣な女から私は生まれたのかと死にたくなった。

 

 

私が結婚した時はメールで短く伝え、一度簡単に二人で挨拶に行っただけにとどめた。

意外にも夫の勤務先に興味がないのか聞かなかったので、

言いたくなかった私はホっとした。

個人情報を渡してしまうと、兄に伝わり攻撃の材料になることがあるから危険だ。

 

ただ、夫の父親が早くに亡くなって母子家庭だったということは知られ、

後にそれをバカにするようなことは言われた。

 

母に果物を持って帰るか聞かれ、少し傷んでいたし持って帰っても食べないと

思ったので「この後、寄るところがあって荷物になるから今日は大丈夫」と

丁重に断ったら

「あらぁ、〇〇さん(夫の名前)は母子家庭だから果物とか食べないのかしらね」

と言い放った。

その時はもう怒りというか、哀れな目で母を見るしかなかった。

自分の好意を無下にされたと思ったのかもしれないが、

嫌味や偏見でしかコミュニケーションを取れない惨めな母が心底嫌いだった。

 

義母は定年までしっかり働いていたし、夫は高校と大学を自分で奨学金を借りて

通い、自分で働いて早々に完済している。

大変な状況であったかもしれないけど幸せに暮らしていた。

 

 

私が夫から貰った指輪も

「それ何?ダイヤ?生意気ね!お母さんの時はそんなんじゃなかったわ」

貶して僻んだ。生意気とは……もう何も言い返す気にもならない。

 

自分に独身の娘がいるのは嫌だから、自分の見栄のために

なるべく早く金持ちと結婚して欲しいが、自分より幸せになって欲しくない。

これが母の気持ちだと思う。

 

結婚式もしつこくパンフレットを送るなどして「早くやれ」と言ってきた。

私の花嫁姿を見たいと言ったことはなく「娘の結婚式に出る自分」という設定が

欲しかっただけだ。

結婚式はやっていないし、やったとしても絶対に呼ぶつもりはなかった。

 

子どもについても「一人くらいなんとかならないの?」「みんな孫がいるのに」

言ってきたが、もちろん無視した。

 

あんたの人生を飾るために生きているわけじゃないんだけど。

モンスター兄エピソード【土足で金を強奪】

私と兄が進学で実家を出た後の帰省は、兄が最優先で

兄が帰ってくる時は「帰ってくるな。」と言われていた。

理由は兄のおもてなしに気を使うなど、色々だったと思う。

兄は暴言をはいたり激怒したりするので、まぁ気は使っていたと思う。

親の自業自得だと思うけども。

 

ある時は、親に帰省の日程を伝えて承諾を貰い、地元の友人と約束していたのだが

お兄ちゃんが来るから来ないで。と言われ、仕方なくホテルをとった。

叔母に愚痴ったら母と話をしたようで

「あの子が勝手にホテル取ったの。変な子ね」と言っていたようだ。

 

そういったこともあり兄が実家を出た後は、兄とは交流がなく

顔を合わせることも少なかった。

 

親は兄を優先させていたものの、兄が帰る時は

兄が必ず何かしらの怒りを爆発させていたようだった。

色々エピソードはあるが、その中でも母や親族から何度も何度も聞いた

「土足で金を強奪事件」というものがある。

 

兄が30代独身の時、実家に帰省して両親を食事に連れて行った。

ものすごくケチな兄が珍しくご馳走すると言ったらしいが、

案の定、食事の場での両親の言動が気にいらないと言って激怒し

実家に帰ってくるなり土足で家にあがり、多めにお札を奪って帰っていったという。

 

本来は父が激怒返しするべきと思うが、もちろん父は「無」なので

何も言わない。

母は叔母に愚痴り親族に拡散されて終わった。

後に、両親にその時の事を言ったら「お兄ちゃんは反抗期だったから」と

言っていて呆れた。

30過ぎてるけど?なんなら今でもやるけど?

 

後に兄にはこのような

“自ら人に関わってきて、お前の態度がダメだから怒っている”という

罠にかけて激怒するメソッドがあり、何度も繰り返していることがわかった。

これは本当に本当に根が深い。

 

このように元々兄の怒りや復讐の矛先は両親、特に母に向かっていたが、

ここ12年くらいは私にターゲットをしぼっており、同じメソッドでやられている。

とはいえ、私は関わらないようにしているのでファクト材料が足りないらしく

兄の妄想や虚言で怒りの火力を高めているようだ。

 

ちなみにこの事件の事を兄は兄嫁には「絶対にやっていない」と言っており

子どもの頃のゲームセンター事件※の時と同じく、それをバラしたやつ(私)を

とことん虐め抜く事にしたようだ。

noemie.hatenablog.com

 

私がバラした理由は目に余る兄の言動に限界を感じ、

兄嫁に兄の心の問題に気づいて欲しかったからだ。

陰で家族に対して酷いモラハラをし続けているのに、

自分はどんなに素晴らしい考えかを兄嫁の前で披露しているのを

聞くに耐えられなかった。

 

兄にとっての正義とはなんなのか。

そしてこのメソッド、他人に対してもやっているのだろうか。

こういう人間は関わったら終わりだ。

毒母エピソード【父に対して】

両親はお見合いで結婚した。

「お父さんが勝手に指輪作ってきちゃったから結婚した」と母は言っていたが

本当ことはわからない。

 

叔母からは「好きな人がいたんだけど外国に行っちゃってね。フラれたみたい」

というのと「幼馴染の婚約者がいたんだけど、急に婚約破棄をしたの。

式場のハガキ刷ってたから大変だったわ」

という話を聞いたことがある。

 

婚約破棄の理由はどうやら、婚約者がちょっと母の容姿を揶揄ったから。

というのが有力らしい。

母はまぁまぁ容姿に自信を持っていたので(※客観的に見て極めて普通の容姿

プライドが傷ついたのだろうか?

婚約破棄を伝えに相手の家に伺った叔父(母の姉の配偶者)が家に行ったら

歓迎されてしまい言い出せなくて泊まってしまった。という話も聞いた。

 

叔母から聞く母の話もなかなかエキセントリックだ。

嫌いな人が家にきた時は、大きな音でドアをピシャリと閉めた、など。

 

父はとにかく「無」で母の言うなりだった。

とにかくほとんどの事を黙ってやり過ごす。

無関心は子どもにとって暴力に値するくらい悪だが、身勝手な母にとっては

とても都合が良かったんだと思う。

 

父は真面目に働いていたが、母は父の職業を隠したがった。

普通の会社に長く勤めていたが、逆に弁護士や医師だったら自慢していただろう。

また、ことあるごとに父の容姿を揶揄しており、

母が友人といる時に父が通りすがった時は無視していたようだ。

無口な父がポツリと「お母さんは外で無視するんだよ」と言っていた。

母は父のいないところで「お父さん顔が悪いから嫌なのよ」と笑っていた。

 

まぁ父に対して、常に意地悪して冷たくしていたわけではないが

完全に下に見ていたと思う。

父は、車を運転してくれるし真面目に働いてお給料を持ってくる。

お小遣い制でも文句も言わない。

ギャンブルなどもしない。父は70くらいまで会社で働いていたので、

晩年は年金繰り下げで年金も多く貰っていた。

 

今までの父に対する母の言動を見ていると

父が認知症、ガン、誤嚥性肺炎などで体重が半分になり、

意思疎通も難しい状態になっても胃ろうができる病院にわざわざ転院し、

生かされたのも年金を多くもらうためだったんだろうと思う。

 

 

毒母エピソード【容姿について】

母は幼い私に「あなたは40の恥かきっ子として生まれてきたのよ」と言っていた。

その言葉の意味がわかったのは高校生の時で、私にわざわざ「恥ずかしい子」と

意地悪を言っていただけではなく、実に品がないなと思った。

 

私は父が38、母が33の時の子どもだが、そんなことを産んだ子に

何度も言うくらいなら作らなければ良かったのに。と思う。

鏡を見せて「私は恥かきっ子を産みました」と言わせるセラピーでも受けさせたい。

 

また、父と私がリビングでテレビを見ている時、

母が突然「お父さんが違ったら、可愛い子が生まれたはずなんだけどねぇ」と

ニヤニヤしながら言ってきたことがある。

父は「無」なので何も言わず、言い返すのが面倒だった私も黙っていた。

 

母は自分の容姿にまぁまぁ自信があるようで、自分一人の遺伝子なら

可愛い子が生まれたのに。と思ったのだろうか。

そして、そういうことは兄には決して言わない。

兄も相当容姿に恵まれていないのだが…。

(本人に言ったら激怒案件なので陰で少し言っていた)

「父が違ったら可愛い子だったはず。あんたは可愛くない」は

言い方を少し変えながら、度々言われたので私はすっかり「自分は酷く醜い」と

思い込んだ。

 

中学に入りおでこにニキビができ始めて悩んでいた時は

母に「そんな汚い肌してる子いないわよ」と何度も言われ

さらに悩んでしまったこともある。病院にも連れてってもらえなかった。

 

母は大柄な私の体格についても色々と言っていた。

バレエをやめさせる理由として「大柄だから」ということを言われたし

「あなたは身長が高いから太ったら終わり」

「身長から-120引いた体重以上になったら終わり」

と当時やや痩せ気味で全く太っていなかったのにも関わらず

痩せていることを強要した。

 

ある日、私が冷蔵庫の飲み物をとりにキッチンに行ったら

母が炒め物を作ろうとしていた。

油を入れないで材料を入れていたので何気なく「油は入れないの?」と聞いたところ

大声で「うるさいわね!油は太るのよ!」と持っていた菜箸を叩きつけて激昂された。

その頃、油をひかずに調理できるフライパンではなかったし、いつも入れていたから

なんとなく聞いただけだったので、とてもびっくりした。

娘にミスを指摘されたと思ったのだろうか。

 

母は私が大人になってからも太っただの痩せただのとうるさかった。

痩せろと言う割に、私が太ると嬉しそうに何度も攻撃した。

 

また、私は健康診断では異常がないのだが母自身が糖尿病気味なので

私にも「糖尿になる」と呪いをかけていた。

何度も毎年検査受けていて血糖値は正常。と伝えても

心配しているていで糖尿になる。糖尿になる。とうるさかった。

私が「糖尿病になった」と言えば「ほらみなさい」と満足したのかもね。

 

ちなみに母は中肉中背でやや太っていたと思う。今は知らないが。

毒母エピソード【プレゼント】

母はお花の先生をしていて、それ用のエプロンをいくつか持っていた。

それを知っていたので小学5年生の時、母の日にかなり奮発してエプロンを買って

プレゼントしたことがある。

 

母が好きだという薄いクリーム色に少し上品なレースとお花のあしらいがついていて

お花の先生用にピッタリだなと子どもながらに思って選び、

渡す時には喜んでくれるだろうとワクワクした。

 

母はそっけなく受け取り、その後どこにやったかわからない。

ある日、母に泣きながら

「どうしてあのエプロンを使ってくれないの?」と聞いたのだが

母は「あんなの着れないわよ!あんなもんいらないわよ!」と言い捨てた。

私はショックで固まってしまった。

 

後日「お母さん、あんな酷いこと言ってごめんね。本当は大切にとってあるの」

なんて言うはずもなく、エプロンを見たことがないし、

それについて何か言われたこともない。

捨てたかバザーにでも出したんだと思う。

 

私はそれ以来、母の日に何かをあげることをやめた。傷つきたくないからだ。

(大人になってから、結婚してからあげたことはあります)

今でもエプロンのデザインを思い出せるほど衝撃的な出来事だった。

 

親も子どもに趣味じゃないものを貰って身につけるのが苦な時だってあるだろうが

言い方があるだろうに。

 

わざわざ“お前の選択が悪い。お前が悪い”という事を恫喝口調で言うところが

母らしい。

 

 

毒家族紹介

“ヒステリックな大声モンスター”の

母は多動で色々なことに手を出すので家が散らかっているタイプだった。

話もあちこち飛びやすい。さっき言ったことと正反対の事を言ったりもする。

声は大きくヒステリックだった。

 

そんな母はとても教育熱心で、私と兄に3歳からあらゆる習い事をさせていた。

ピアノ、ヴァイオリン、水泳、公文、英会話、バレエ、スキーなど……。

 

習い事は家族以外の他人が介在するし、音楽や運動が好きだった私は

好きになる要素ばかりだったはずなのに、自分が否定される材料となっていた為

とても苦痛だった。

一週間全て親の管理でスケジュールが埋まっているのも辛かった。

 

単体で見れば楽しいものもあったはずで、嫌で嫌でしょうがなかったという部分が

本当に残念で勿体無い。

好きで続けていたら、どんなに楽しかっただろうと思う。

 

唯一バレエは自分からお願いした習い事だった。

一通り水泳のカリキュラムが終わって辞める事になり、

渋々ではあるが水泳の代わりということでやらせてくれた。

 

仲の良かった友人がバレエ・ジャズダンス・タップダンスを習っていて

小学生だけどパーマをかけていて、その子の明るくおしゃれな雰囲気に憧れていた。

 

母は「ダンスは不良になる」など意味不明な事を言って

辞めさせたがっていたので、中学一年生の中間テストで母の希望する偏差値に

たった「1」届かず、すぐ強制的に辞めさせられた。

その時の言葉は未だに忘れない。勉強も頑張るからバレエは続けたい。と懇願したが

「あんたは大きくてバレリーナになんかなれないから無駄。

そんな図体の人いないわよ。」と嘲笑していた。

ちなみに当時159cm38kgだった。

 

その他の習い事はできなければ激しく叱責し、いかに私がダメ人間かを

何度も何度も繰り返し言われた。

ある時、ヴァイオリンの練習時に激しく怒られ、ほぼ下着姿でマンションの廊下に

放りだされてしまった。玄関の横にうずくまっていると母が出てきて

「そんな姿で外にいるの恥ずかしいじゃない!入りなさい!」と怒られ

中に入れられた。

母はそんなダブルバインドを日常的に繰り返していたので

私は常に母の顔色を伺うような子どもだった。

 

直接的な暴力はほぼなかったものの、とにかくいつもヒステリックで

物を投げたり物にあたったり大声を出したりと常に支配的だった。

 

私は未だに大きな音が苦手だ。

 

“完全な無”の

父はヒステリックに怒る母を常になかったことにしていて、

子どもに対しても本当に「無」だった。

父を漢字一文字で表すとしたら確実に「無」だ。

好きな言葉は「事なかれ」なのではないだろうか。

父の少ない発言から察するに子どもや動物は嫌いだったと思う。

 

父と最低限必要な会話以外、喋った記憶もない。スキンシップをした覚えもない。

父が亡くなるまで父から手紙はもちろん、電話すらももらったことがない。

誕生日も成人した時も入学した時も卒業した時も、病気で入院・手術をした時も、

何かしらの言葉すらかけてくれなかった。

 

唯一私に対して父が意思表示したことといえば、私が手をつけたものは汚いので

食べ物のシェアはしたくない。作ったものも食べたくない。ということだった。

元々は赤ちゃんの頃、私が兄よりヨダレが多く出ていたことから始まったようだが

父が「〇〇が手をつけたものは汚いからな」と笑顔で何度も言っていたのが

ショックで子どもの頃は泣いていた。

直接泣いて訴えたこともあるが、父は黙っていた。

その姿を思い出すと「早く終わらないかなー」とでも考えていたのかと思う。

黙って外に散歩に出てしまったこともあった。

 

次第に私は自分が手をつけたものを父が避けるところを見たくなかったので

取り箸を使っていること、手をつけていないよということを強めにアピール

するようになった。

 

高校生の時、私が夕飯にカレーを作った時は父は一切手をつけず

別のものを食べた。母はお父さんカレー好きじゃないのよ。と言っていたが

その後カレーは好きだということを本人から聞いている。

一見私をフォローしたような母の発言も父を庇ったものだった。

 

この経験は私の妙な潔癖さの原因になっていると思う。

初めて恋人に料理を作る時、彼に手術前の医師のように手を挙げて見せ、

「手、綺麗に洗ったからね!」と言って不思議がられたことがある。

また、ある程度の年齢まで自分の料理を人に食べてもらうことが怖く苦手だった。

 

“陰湿モンスター”の

兄は母親から溺愛されたものの能力以上に期待されすぎたり、

条件付き愛情を与えられたりして完全な陰湿モンスターに仕上がった。

 

苦しみながら国立大学の大学院まで行ったものの、大学生の時に「死のうと思った」と

言っていたことがある。

兄なりの苦しみがあったのかと思うが、今となってはそうすればよかったのに。

と私は思うほど人に不快さと危害を与える人間だ。

兄のことを好きだという人は、この世にもあの世にもいないだろうな。と思うほど、

酷い人格障害かと思う。

 

兄も数々の習い事をさせられたり塾の合宿に行ったり、アメリカにホームステイに行ったりと色々と詰め込まれ、将来は医者か弁護士に。と母親に期待されていた。

100万くらいのヴァイオリンも買ってもらっていた。

確か医学部は落ちたと思われる。

今は普通の会社員で海外駐在したことをとても自慢に思っている。

 

うちは手狭なマンションだったので、兄が家で勉強している時は

静かにしていないといけなかった。

うるせえ!と凄んでくるので、父はいつも一人イヤホンでテレビを見ていた。

中学高校の時は反抗期なのかと思ったが、物心ついた時からずっと怒っているので

そういう性格なのだろう。兄の笑顔を見たことがない。

兄嫁の実家に行った時も「笑わない人」と言われたみたい。と親が言っていた。

サイコパスの兄が結婚できたのもびっくりだが、

兄嫁はセレブ生活に憧れ海外駐在員目当てで結婚したであろう変わった人だ。

 

 

私が小学生で兄が中学生の時、こんなことがあった。

兄が「図書館で勉強してくる。」と言って私の自転車で出かけた。

私はそれを知らずにゲームセンターの前に私の自転車が止まっているのを見かけて、

帰宅後「私の自転車がゲームセンターにあったんだよ」と母と兄の前で話したら

兄がものすごく激怒して「ゲームセンターに行っていない!図書館にいた!」

「おまえは馬鹿か!」とひどく罵られてしまった。

 

私は自分の自転車がなぜゲームセンターにあったかわからず

火に油を注ぐように「でも絶対私の自転車だった。近くまで見て確かめたし

シールも貼ってあったし」と言ってしまい大泣きするまで責められた。

 

今なら空気を読んで「これは面倒になるから見間違いってことにしておこう」と

言うと思うが、私も子どもだったから自分は嘘を言っていないよ。という事を

主張する方が大事だった。

 

兄は母の前で常に正しくいなければいけないという気持ちが強く、

嘘をついてでも人を攻撃してでも「正しい(と思われる)自分」の姿を守った。

この性質は大人になってからもずっと続いており、後に大変な虚言癖マンとなる。

 

子どもを過度に抑えつけると嘘をつくことがあるけど、

兄の場合は50過ぎてももやっているので重症だ。

嘘の設定もお手のもので、無から壮大な被害妄想義憤ストーリーを創りだす。

自分を良く見せる為の嘘は序の口で、自分の創り出した偽物語に激怒して興奮し

怨み攻撃し続ける。

他人の失敗や苦しみ、悲しみに深い満足感を覚えるタイプでもある。

 

あまりに理解できないので兄の事をカウンセラーの人に相談したら

何らかの診断がつくとのことだった。

 

兄の人格障害は母の育て方による影響も大きいけれど、自分と向き合わなかったし

人を執拗に攻撃するので1ミリも同情の余地はない。

大声でヒステリックに人を威嚇するところは母親からしっかり伝統継承されている。

 

兄は本当にやばいので一度母にパーソナリティ障害の本を渡したことがあるが

“お兄ちゃんがそんなわけない!そんな事を言ってくる私が悪”という事で一蹴されてしまった。

 


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文庫 自分の「異常性」に気づかない人たち: 病識と否認の心理 (草思社文庫 に 3-2)

普通の毒家族

父はサラリーマン、母は主婦をしながらたまにお花の先生

も私も普通に学校に行っていて、持ち家があって車もあった。

学校に行けなかったことも、ご飯が食べられなかったこともない。

父は真面目に働いてたし、表面上は何も問題がないように見えていたと思う。

 

子どもの頃はそんな条件さえ揃っていれば普通の家族だと思っていた。

 

今みたいに【毒親】なんて言葉はなかったし、産んで貰った親に感謝しなさい。

育てて貰った親に感謝しなさい。親孝行しなさい。というのが世の流れだったし、

何より子どもの頃はまさか親が自分の事を嫌うだなんて思わない。

 

たまにニュースで見る子どもの虐待のニュースは他人事だったし、

ごく一部のおかしな人がおこした暴力事件と認識していた。

 

しかし

なぜいつも怒られるのか。なぜいつも否定されるのか。

なぜいつも悪いことばかり言われるのか。なぜ私はダメなのか。

なぜいつも母と兄は怒っているのか。なぜ父は何も言わないのか。

そしてなぜ私は幸せじゃないのか……

 

つねに自分の中にある違和感、怒り、悲しみの感情の原因は

自分が悪いからだとも思っていた。

 

子どもの頃の自家中毒もストレスとは思わず、単なる体質だと思っていた。

アセトン血性嘔吐症(アセトンけっせいおうとしょう、acetonic vomiting)は、過労、精神的緊張感染などによって誘引される嘔吐症で、血中にケトン体アセトン)が多い状態になる。自家中毒(じかちゅうどく)、周期性嘔吐症(しゅうきせいおうとしょう)などとも言われる。小児に多い疾患で、2-10歳に好発する。

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

母に激怒されながら習い事に行く前、マンションのエレベータに映る自分を見て、

この人は誰だろう。自分って何だろう。生きるって何だろうと何度も考えた。

 

学校は楽しかったし文化的なことも運動も好きだったけど、

子どもがこんな事をずっと考えているのはおかしい。

あの頃インターネットやスマホがあったら、時代が違ったら…

もっと早く気づけたかなと思ったりもする。

 

 

実家を出て一人暮らしを始めても、年をとるごとに心の中の違和感は

徐々にむき出しになり自分の心と身体を蝕んでいきました。

 

うちのようにあからさまな肉体的暴力・経済的困窮などがないと

気づきにくく、理解されにくい為、答えを出すのに時間を要してしまいました。

 

淡々と綴っていきます。