母の日
法的に関係遮断をしてから初めての母の日だが、世間の母の日ムードにも全く動じなかった。
色々な家庭の人がいるのだから、お店などに母の日一色にするのをやめろとも思わない。インスタで「Happy Mother's Day! 全てのお母さんにありがとう♡」みたいな投稿を見ても、なんとも思わない。私もそっち側の人間だったら、言ってたかもしれない。
誰かが誰かを大切に想うことを否定したくない。
関係遮断をすることで私が一番恐れていたのは、母や兄が親族中に悪口を言いふらすことや、何かしらの嫌がらせをしてくることではなく「自分が少しでも後悔したり悲しくなったりすること」だった。
母や兄が悪口を言いふらすくらいは、私の人生に全く影響はないし、
嫌がらせをしてきた場合の対策もしてある。
どちらも深刻な影響があった場合は法的手段に出るだけだ。
ただ、自分の心だけは「もしかして」とほんの少し心配だった。
そうならないよう自分に正直に向き合い、微調整を繰り返してきたつもりでも。
少しでも涙が出たり危ういと感じたら、カウンセリングに行こうと決めていたが、
幸い関係遮断をしたことによって、すごく心が軽くなり幸せを感じることができた。
母の日も以前は形式的に夫からお花を送ったりして、それについて嫌なコミュニケーションをとらないといけないこともあったが、今は何もしなくていいという喜びというか、とても穏やかな気持ちに過ごせている。
関係遮断をして本当によかったと心の底から思う。
まぁ来世があるなら、あっち側の気持ちも味わってみたいかもね。
調停後に気づいた呪いのアドレス〜進捗状況〜
兄と母が提示した「私の名前+死」というアドレスの問題は、
2ヶ月ほど経つがまだ解決していない。
私の弁護士さんは早々に対応してくださり、まず相手方の弁護士さんに
電話で連絡をしてくださった。
相手方の弁護士さんはそのような意味があるとわからず、そのまま裁判所に
送ってしまったことを謝罪していたとのことだった。
相手方の弁護士さんももし意味をわかっていたら、無駄な争いを避ける為、
止めていただろう。
私も兄の陰湿な性格は重々理解していははずなのに、その場で調べず
気づかなかったことを悔やんだ。
しかし、この件は裁判所などにも連絡がいっており、嫌がらせが記録に残る。
という面ではこれで良かったとも思う。
その後、相手方の弁護士さんは兄に連絡をとったのだが、案の定
メールアドレスにそのような意図はないと言い、色々話をしても任意に変更に
応じようとしないとのことだった。
「
相手方の弁護士さんは兄や母からの都合の良い話ばかり聞いていると思うが、
それでもおかしな人間だととうに気づいているだろう。
その後、正式に代理人(相手方の弁護士さん)を通して書面で兄が被害者ぶった「言い訳」が送られてきた。
想定内の内容かつ、私に嫌がらせの意味が伝わって嬉々としている姿が
想像できる。
母もしてやったりなのだろう。
人に嫌がらせをして満足感を得るということが理解できない。
つづく
調停後に気づいた呪いのアドレス
無事、関係遮断の調停が成立し、弁護士さんとの最後の打ち合わせも終わり、
あとは精算のみというところで、とんでもないことが発覚した。
調停条項の中に“母が入院した時”や“母が経済的に困窮した時”もしくは
“母が亡くなった時”のみお互いが指定したメールアドレスにのみ連絡をして良い。
というものがあるのだが、その条項を入れることになった経緯は他で書くとして、
そのメールアドレスに問題があった。
こちらは日付的な数字とアルファベットを羅列したシンプルで分かりやすいもの、
かつ感情的な意味を持たないものを早々に提示したのだが、
兄と母は調停成立時にあるアドレスを指定してきた。
当日は、先方のアドレスに私の名前が入っていることに困惑したものの
その日に調停を成立させることに集中していたのでアドレスの意味など調べることはなかった。
弁護士さんもそんな余裕はなかったと思う。
しかし、先日ふと私の名前の後に不自然な単語が入っていたのが気になり、詳しく調べてみた。
するとある国の言葉で「死」を意味するものだった。
つまり「私の名前+死」というメルアドだったのだ。
英語ではなく、兄が駐在していた国の言葉だったので誰も気づかなかった。
自分のアドレスに相手の名前を入れることが不自然だし
自分が数年住んでいた国の言葉を使っているので意図的であるのは確実だ。
最後の最後にとんでもない稚拙かつ強烈な嫌がらせをしてきた。しかも法の場で。
この件についての対処は現在弁護士さんに相談している。
「死」という言葉は死んでほしいという意味だろうから
相談を続けている警察署の方にも報告した。
私は、兄の今までの脅しや今回の件は、世間でよく話題になる「
(弱い動物を殺害することから始まり、
調停成立
ついに調停が成立した。
これで法的に母も兄も私に連絡をしてくることを禁じられた。
電話もメールもSNSも訪問も面会も全てだめ。
実質、縁が切れました。
関係遮断については相手方が反論したりもした為、細かく条件をつめた。
暴言や誹謗中傷、名誉毀損なども禁じている為(お互い)、これからこのブログに書く内容も注意して行こうと思う。
もしかしたら過去の記事も少しボカしを入れて修正するかもしれない。
※読んでくださってる方はとても少ないですが
ただし、民法第877条の扶養義務が完全に消えたわけではない。
これを条項に記載してもしなくても、法的には何も影響はないのだが、
この一文を入れたいという母の希望があり、あえて入れたくないこちら側としては
拒否した。
調停委員の方には「実質ほぼ100%関係遮断の中で、お母さんは最後のお守りとして入れたいんじゃないかと思います」と言われたのだが、私は「そのお守りは私にとって呪いです」とキッパリ断った。
私の人格・外見全てを否定し続け、兄のDVに加担し嘘の悪評を流し
私が面倒を見ていた父のお金は全ておろして私に一円もいかないよう対策をし、
親族には私にお金を取られたと嘘の話をし、遺留分の解決金すらまけてきた母が
最後の最後に私に介護をさせようとしている。
これは呪い以外なに物でもない。
「逃さないわよ。」ということだろう。
結局、その一文は入れても入れなくても法的に影響はないと相手方の代理人(弁護士さん)に説得してもらい、削除してもらった。
その他、少し譲歩した部分もあるがそれはこれからどこかに書いておこうと思う。
この調停は父の「遺言無効確認調停申立」として行ったのだが、
実際は「遺言無効確認調停申立」を利用した関係遮断の為の調停だった。
お金の為であれば、調停にせずさっさと裁判にしていた。
遺言が無効である証拠はかなり集めてあったし、父のお金を全て引き出してしまっていた証拠も、警察に相談していた記録など、集められる証拠は相当数集めてあった。
裁判にすると何年もかかる場合も多く、その間に資産の差押をしておかないといけなかったり(差押にもそれなりのお金がかかる)、何より争点が「お金」一点になる為、関係遮断の条項を取り交わすことができない。100%勝訴する保証もない。
調停だとお金を引き出したことも、何年も認知症を患っていた父が亡くなる直前に自分で印鑑すら押せない状態(遺言書に記録あり)で遺言書を作ったことも、認めなければいけないので、貰えるお金はほんの僅かだ。相当な経費もかかった。
母が持っている資産(父の口座から全額引き出した分も)も100%兄に行くと思う。
それより何より私が健康で前向きに生きていくことの方がよっぽど価値があると思っている。
もちろん大きな額なので欲しくないといえば嘘になるし、自分が健康を害した分
請求したい気持ちもあったが、何度じっくり考えてもやはりできるだけ早く関係遮断する方がこれからの人生を豊かに過ごせると思った。
このブログを書き始めたのは、現実的に家族と縁を切る方法を記しておきたかったからだが、これからきちんと整理して記していこうと思う。
成人式
新成人の皆さま、おめでとうございます。
私みたいに違った人生でやり直したいな、と思うことがないよう皆幸せであって欲しい。
私の成人式は何もなかった。大学の友人達がお母さんに用意してもらった着物を着て、写真を撮ったり食事をしたという報告を聞きながら家に一人で居た。
もちろん母からも父からも電話すら来なかった。
娘の成人に興味がないのだろう。
後日、友人達の写真を見てどうしようもなく寂しくなり、母に訴えたが「いくら欲しいの?」とまるでお金を無心しているような言い方をされ、さらに傷ついた。
学校を卒業して何年か経って、ある会話の流れから再度私が祝ってもらえなかったことがどんなに寂しかったか訴えたが「卒業式の袴代、出してあげたじゃない」と怒られた。
確かにそのお金は出してもらった。着付けは友人のお母様がやってくれ、両親は私の袴姿は見ていない。
私はお金を出してもらったんだから、それだけでも感謝しないと。と自分を納得させ、寂しさに蓋をした。
まぁ大人になって、周囲に話を聞くと「何もしなかったよ」という人もいるし、今も恨んでいるとかではないが、両親が私のことを大事に想っていなかったというエピソードの一つだなぁと思う。
お正月
毒親、毒家族がいる人にとってお正月は、とても心に負担がかかるイベントかと思う。
私もある程度の年齢までは、実家に行くことがあったが、毎年楽しみなイベントではなく「お正月は家族と過ごさなければいけない」という世間の圧のようなものを勝手に感じ、実家に行かなければ行かないで孤独を感じたりもした。
子どもの頃はクリスマス同様、形式的には普通に年末年始っぽく過ごしていたかと思う。
おせちもありがたいことに父の仕事の関係で頂いたものなのか買ったものなのか、和洋中と豪華なものが揃っていて、母がおせちを作ったことはないと思う。
私はそんなことより、怒りっぽい母と兄と長い時間過ごすのが嫌だったし、おせちも自分が好きなものを取っていいのかわからなかったし、年越し蕎麦に入っているネギはいつも兄が白く綺麗な部分、私は先っぽの緑の固い所とちょっとした差別をされてたことが気になった。
今思うと些細なことだったりするが、そんなことが気になるほど私は母から嫌われていると感じていたと思う。
実家を出てからは、どこかで書いたように兄が最優先で交通機関の切符を買った後でも「お兄ちゃんが帰ってくるから来ないで(※兄を最大限にもてなす為)」と言われたりした。
その時はホテルを取ったが、そこまでして地元に帰るのは友人達との約束があったからだ。
何年も帰らない時もあったが、それ自体を「白状だ」と責められることもあった。
もう少し経つと今度は母のキッチンの汚さが気になるようになり、母の料理を食べることが嫌になってしまい「ご飯を食べてくるから何もいらない」と言って、少し寄る程度にしていた。母の負担も減っていたかと思われる。
やってやった。という恩を押し付けられるのも嫌だった。
また、兄の標的にされてからは「絶対に兄が来ない日」というのを何度も何度も確認してから行った。
ちなみに兄嫁は必ず前日に具合が悪くなって実家に来ないらしい。
毎年その茶番を繰り返すが、母や兄にとって「兄嫁が行きたくないから行かない」という事実より「来たかったけど具合が悪いならしょうがない」という嘘の方が大事なんだと思う。もはや兄嫁は行かないのが当たり前で、そのストーリーを作っているのは兄かと思う。
そんな我慢や気遣いをしてまで実家に帰らなくていいと悟ってからは、本当に楽になった。私はなんの罪悪感で無理やり実家に行っていたのだろうか。
無理して家族ごっこをすることは悟るまでの必要な過程だったのかな。
今はほぼ縁が切れているので(弁護士さんを通して正式な書面を交わすのはこれからですが)本当に穏やかなお正月を過ごすことができている。
母がどうしてるかとかも全く気にならない。
私から取り上げた父の遺産で兄とご馳走を食べながら、悪口を言ってるのかなと思う。
愛憎劇を繰り返した母と兄の共通の話題はそれくらいしかないのだろう。
想像しても全く悔しくも寂しくもない。
ここまで心が穏やかになるまで私はよく頑張った。毒家族と離れた今が一番幸せだ。
一方、SNSで仲のいい家族の投稿を見たり、友人達から家族とどのように過ごしたとかいう報告を聞くと、まだ少し羨ましさが込み上げてくる。
年末年始に一緒に過ごせる友人や夫がいることに感謝しないとね。
クリスマス
この時期になると、SNSなどで幸せな家族のクリスマスの準備や様子が目に入ってくる。
子どもがいる友人たちは、ケーキをどこで予約するだとか何が欲しいと言ってるだとか、少し面倒くさそうなそぶりも見せつつ準備を楽しんでいるよう。
自分が子どもの頃のクリスマスは、意外にも形式的にだけ普通だったと思う。
状況と登場するアイテムだけ聞けば「毒家族ではなかったのでは?」と言われてしまうかもしれない。
ツリーもケーキもあり、幼少期にはプレゼントらしきものもあった。
ツリーは微かに飾った覚えはあるものの、いつの間にかなくなっていた。
ケーキは父の仕事の関係でなぜか毎年たくさんあった。そのおかげで、ありがたみがわからなかったのと、甘いものが苦手だった私は苦痛でもあった。
同じくそんなに甘いものを食べなかった兄に「俺は食べた。お前があと食べろ」と強制されたり、朝ご飯の代わりに私だけ数日連続してケーキが出てきたりした。
兄は白いご飯とおかずの和食なのに。
贅沢だと言われそうだが、うちは物質的に恵まれてたとしても、常にネガティブな要素がつきまとってくるので幸せの本質とは、そういうことではない。ということがよくわかる例かと思う。
プレゼントに関しては欲しいものを買ってもらった記憶はないが、小学校低学年くらいまでは何か文房具かお菓子みたいなものを貰った気がする。
最後の記憶として、家族でどこかに買い物に行った時、私は車で寝てしまいふと目が覚めると、ゲーム機の大きな箱を抱えた兄と両親が車に戻ってくるという光景が残っている。
寝てしまった私を車に置いて、兄にだけクリスマスプレゼントを買ったみたいだが、母は良い成績をとったご褒美をかねて。と言っていた。
当時は、悲しいけど私は良い成績をとらなかったから買ってもらえないのは当たり前だ。と思っていた。もちろん子どもだったので悲しいという気持ちの方が大きく、それを「自分はダメな子だからしょうがない。自分が悪い。」と自分で自分を納得させた。
そんなこともありつつ、うちのメインイベントは兄が小学生の時短期留学(留学というほどでもないほど短期の)でお世話になったホストファミリーから届く段ボールいっぱいのプレゼントだった。
細かく一つ一つ綺麗な柄の包装紙で包んであり、そこに誰宛か手書きで書いてあるもので、段ボールから自分の名前を見つけるのがとても楽しみだった。
当時の日本では見たことがないアメリカの雑貨やピアスなど、少し大人びたアイテムにワクワクし、何より自分にあれこれ選んでくれたことがとても嬉しかった。
私も留学したいな、と思ったきっかけになった出来事でもある。
できなかったけど。
うちからも同じように段ボールいっぱいに、細々と日本の文房具など色々なプレゼントを入れて送っており、その買い物に付き合うのだけは楽しかった。
あと毒母らしいエピソードといえば、そのホストファミリーに私と同じ年頃の男の子がおり、「○○と結婚できるといいわね。ハーフなら可愛い子生まれるかもしれないし」と言っていたことだろう。
今振り返ると、全部ハリボテのような、なんていうか仏作って魂入れずとも違うし
とにかく「ケーキ プレゼント ツリー」はあるのに幸せな思い出になっていない。
こういうのなんていうんだろうね、なんだかうまく言えないけれど虚しい思い出である。